軋ませて音を立てないよう、慎重に、ゆっくりと時間をかけて、彼は扉を開いた。
開ききったところでそーっと頭だけを扉向こうへ潜らせ、左右を確認する。
日付変更などとっくに過ぎ去った、深夜も深夜の出来事である。
そんな時間にこんな怪しい動き、事情を何も知らない者が目撃したのなら
泥棒にでも入ったのかコイツ?と疑われてもおかしくない。
勿論、彼は盗みに入ったわけではない。
きちんと招かれて正面玄関から入り、許可を得て蔵書を読んでいた。
熱中しすぎて深更まで居た…ただそれだけなのだが。
「……やっぱりか…。…ちとまずったなぁ…」
扉を開けて確認できた光景に、彼は溜息混じりに呟いた。
それもそのはず。
廊下があるはずの場所に廊下はなく、全く違う光景が広がっていたのだから。
事の発端は…所持品トレード提案を彼――翼人が受けたことである。
それ自体は珍しいことでもなんでもない。この世界では極普通のやりとり。
今回は同じ央国に居る相手から。
同じ国の場合は、どちらかが籍を置く団体…ギルドの拠点で取引を行うのが通例。
互いに2,3確認しあった後、では取引をどちらで行うかという話になった際
彼は迷いなく相手が籍を置く場所での取引を希望した。
というのも、今回のトレード相手が『封印指定図書館』に籍を置く方だったからだ。
封印指定図書館。
書物ではなく、その建物自体が封印指定を受けている
そんな図書館が今の巡り、オーラムに在る、と、噂には聞いていた。
建物ごと封印されるということは、一般的に禁書とされるような類の本を
沢山収集しているのではないかと想像するのが普通だろう。
彼は元々読書好き。神話や伝説、文化、そして何より魔術系統に関しては
趣味の枠に収まらない興味を持っている。
今回の話は、図書館を訪ねる切欠を見つけられなかった彼にとって絶好の機会。
故に、
可能ならば取引の後、少し滞在させて頂いて、貴館の蔵書を拝読できないだろうか。
難しいければ見学だけでもさせてもらえると嬉しい――
駄目元でそう伝えてみたところ、前者に対し、了の回答。
その回答を得た際、嬉しさのあまり変な声を出したことを
部隊の誰にも見られずに済んだ事は幸いだったろう。
連絡していたよりも少し遅い時刻、完全に日が暮れてしまってから
彼は封印指定図書館を訪れた。
いつもの笑顔を装っていたものの、やはり嬉しさを隠し切れなかったのだろう。
トレードの応対をしてくれた青年にじっと顔を見られてしまったくらい、
彼は凄く楽し気に…要するに浮かれていた。
――後に、これが油断の元だったと溜息をつくことになるとも知らずに。
さりとて、楽しんでいたこと、それ自体が悪いわけではない。
本気の笑顔のお陰か、偶々居合わせた少年から夜食の差し入れまで貰えたのだし。
…図書館で飲食してもいいのか?とは一瞬戸惑いを覚えたが。
「ここは飲食自由。 …本はご自由に、ただし…お気をつけて」
「飲食自由なのか…珍しいな。
…ん? おう。図書館ごと封印されるLvだもんな。気をつける」
幾ら好奇心が勝ろうと、流石に呪われる系の本に手を出す気は更々無い。
そんじょそこらの呪いに負けるような柔な造りはしていないものの、
回避できる危険は回避する。
何かと騒動に巻き込まれることが多いが、本来彼は面倒事は御免蒙る性格なのだ。
…そう。
最初から警戒していた、蔵書に絡む面倒事についてはしっかり回避した。
したのだが。
数刻後。
夜食片手に相当数の蔵書を一気に読破し、知識欲を大いに満たした彼は
ふと我に返って時計を見、苦笑した。
到着が遅れたこともあって一泊する許可も貰っているものの
いくらなんでも夜更かししすぎな時刻である。
このまま徹夜で読み漁るのも楽しいが、これ以上は身体に毒になろう。
そろそろ戻ろう…と本を片付け扉に向かい
……絶句した。
通ってきた扉が無い。
幾ら周りの様子が一切入ってこない位読書に集中していたとはいえ。
びっしり蔵書が収められた高い高い書棚が乱立して迷路のようになっているとはいえ。
方向を見失ったり、帰り道を忘れる事も、ましてや間違えることは断じてない。
かつて異なる世界で冒険者として旅をしていただけあって
方向感覚とルート記憶に関しては絶対の自信がある。
しかし、現実に扉はなくなっているのだ。そもそもあった痕跡すらない。
――トラップか?
かつての冒険者としての勘が言う。
――いやまさか。ダンジョンじゃあるまいし。
此処最近培われている理性がその可能性を否定しようとして――はたと気がついた。
ここは『封印指定図書館』。
つまり…この建物全体に封印という名の術、すなわち魔法が掛かっていることに。
元々そういう建物だったのか、封印のせいでそうなったのかは知る由も無いが
いずれにせよ、普通の建物ではない、ということに。
そして時は『今』へと繋がる。
部屋を探索し直し、来た時とは違う扉を見つけ、少しの逡巡の後
不審者と間違われてもおかしくないような動作でゆるり、扉を開けてみて…
自分の嫌な予感が外れていなかったことに溜息をついた。
ただ外に出るだけなら、自分の工房なり、別の世界なりに転移してしまえばいい。
しかし居る筈の客が不意に消えうせた、など、騒ぎになってしまうのも厄介だ。
そういう意味では下手に動くのも迷惑を掛けそうな気がする。
……となれば、この際腹を括って朝まで読んでようか。
いやいや、それはそれで結局探しに来て貰ってしまう羽目になりそうな……
扉を開け放ったまま、腕を組み、ぐるぐるとそんなことを考えていたその時
ふ、っと鼻腔をくすぐる甘い香り。
「?」
嗅覚を刺激されて、彼は思考を中断した。
何の香りだろうと視線を左右にやれば、暗闇に沈んで判然としない扉向こうの奥から
誰かがこちらへ来る気配がする。 ――殺気や敵意は感じられない。
程なくして現れたのは、見慣れない黒髪眼鏡の男。
こんな時間にここにいるということは、恐らく、図書館関係者だと思うのだが。
「…こんな遅くまでお邪魔して申し訳ない。流石にそろそろ引き上げたい、と
思っているんだが、恥ずかしながら、帰り道が分からなくなってしまってね」
元居候が聞いたならば「え!?ヨクト方向音痴だったの!?」とか勘違いされそうだなと
遠くの方でちらっと思いつつ、目礼序に素直に現状を白状する。
図書館関係者なら帰り道を教えてくれないだろうか、と半分期待してのこと。
駄目なら転移で戻るのでそう伝えて欲しいと言おうと相手の出方を伺っていると
男は僅かに眉を動かした後、くるりと彼に背を向けて歩き出したから堪らない。
男の突然の行動に呆気に取られた一瞬、肩越しにちらりと見られた気もしないでもない。
(付いて来い…って事かな?)
多分、恐らく。
駄目なら転移してしまえ、と、即判断を下し。急いで、しかし静かに扉を閉めると
大分暗闇に同化しかけている黒髪眼鏡の男の後を追う。
男の歩みは四方とも暗闇しかない状態でも、停滞することを知らなかった。
そうして暗闇の中を歩くこと暫し。気が付けば今度は両側に幾つもの扉が並ぶ
細い廊下に入り――幾つかの扉を過ぎ、或いは開けて潜り…を何度か繰り返す。
見覚えのある大きな扉を正面に捉えるまで、そんなに時間は掛からなかった。
流石に1度通った場所なら、彼にはわかる。
あれは、玄関ホールから蔵書室へ至る最初の扉。つまり、スタート地点。
歩みを止めた男に追いつき、横に並んで、扉を見上げ、ほっと安堵の溜息を吐く。
「ありがとさん、助かった ―――…って。あれ?」
いつの間にか、横に居たはずの男が居ない。
戻ったのかと振り返っても、その姿もしなければ気配もしなかった。
ただ、ほんのりと甘い香りが……バニラの香りだと思い出したそれが
僅かに漂っていて、幻ではなかったことを彼に教えている。
不思議なこともあるものだと内心で苦笑しながら、彼は扉を潜り
ホールへと無事帰還した。
……朝になったら彼に…応対してくれた青年に聞いてみよう。
とりあえずそれまでは仮眠だ、と、借り受けた小さなランタンの灯を消した。
翌日。
見事なタイミングで元居候が雇用巡りに封印指定図書館を訪れ、
一緒に経済特区へ戻る道すがら、翼人の話を聞き、読めるんだったら
自分も今から読みに戻る!と言い出したのを止めたのは…また別のお話。
