軽く戸が叩かれた気がしてGieは顔を上げた。
気のせいか、それとも本当に誰か来たのか――後者なら用があるはずで
何かしらアクションが続くだろうと思い、少し待つ。
…気のせいだったか?
そう思うに十分な間、卓の上で琥珀色の海に浸かった氷が
からん、と涼やかな音を立てて身じろぎし
コン 、 コン
高いその音に紛れて、躊躇いがちに、しかも弱くではあったが、間違いなく叩かれる。
音の位置と時間からして、ダーシェかヨクトだろうと検討をつけながら
夜の静寂を破らぬよう静かに開けて、視界に入ったのは夜に沈まぬ白い翼
――しかし、同じく闇に沈まぬはずの、陽光の如き黄緑色は何処にもない。
そこに居たのは。
「……何故」
どうした、ではなく、何故。
オリジナルのように適宜姿が入れ替わるわけではないと本人から聞いている。
彼女が表に出ることは、調整期間でもない限り余程の状況に――しかもそれは
主に戦闘時における意味合いで――でもならない限りありえない。
この世界で傭兵としてやって行く分には青年姿でも十分余力のある状態である。
つまるところ、調整期間でしか出てこないはず、なのだが。
困惑に眉根を寄せて見下ろすGieに、彼女はいつもの表情で
「水無月が終わるから…」
と応じた。
何のことだと更に少し眉を顰めれば、溜息をつきながら目を伏せ
それはそれは小さな、布擦れよりも微かな声で詠うように言の葉を紡ぐ。
水無月の終わりに 紅月は翳る
その色味の抜け落ちること
肌より生気が失われる如く
血色抜けて残るは 生無き白の
物語らぬ、人カタチ
夜の闇に溶けていくその声が、常には無い震えを含んでいたことに
気が付かぬGieではない。
そして紡がれた言の葉が示す事。思い当たって、目を開く。
Gieの驚きを感じてか、彼女は再び目を上げて明らかに苦笑した。
「情けない、と、自分でも思うわ…。何で今更、とも。
でも…どうしようもなかったから…あちらもこうするのが一番だろうと
……嗤ってくれて、構わない」
「……」
嗤える訳がなかった。
治った筈の傷がふとした拍子に疼くのはよくある話。
幾ら見た目には癒えていても、傷付いたという事実が消えたわけではない。
目に見えないレベルでの細かい傷はそこに何時までも残る。
――それは何も身体に限った話ではないのだろう。
彼らの、特に彼女の、たった一欠片の魂にも深く残る程穿ったそれは
間違いなく己に…基の己に関わりのあることで。
それを知って、どうして彼女を嗤えるだろうか。
何も言わず、Gieは彼女が通れるだけの幅を確保すると
入れ、と、目で促した。
