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Memento vivere - I

続き

極々微かに扉が叩かれた。
そんな気がしてGieは書物に落としていた視線を上げた。しかして部屋の扉は沈黙したままである。
気のせいかと訝しむも、扉の向こう側に微かに気配を感じる、誰かが居るのは間違いない。
各々が自室に戻ってからそれなりに時間が経っている。
こんな夜中にわざわざ自室を訪ねてくる人物の心当たりは一人だけ。

それも非常に稀な事だ。

何か危急の事態でも発生したのか。それならばとっくに扉を開けるか声をかけてくるだろうから違う。
ならばと推測するに、非常に個人的な理由――尚且つGieが就寝しているなら別に良い、
という軽い気持ちでの訪問なのだろう。

否、それが軽い気持ちだと思っているのは当人だけ。
Gieの部屋を訪ねるという行為そのものが異常事態だと気付いていない。

『彼ら』になって改善したかと思いきや、その辺りは相変わらず難儀な精神構造のままのようだと
内心で溜息を一つ零してから、Gieは扉の前に佇んだままの人物に知らせるよう夜の静寂を破らぬ
程度に音を立てて立ち上がる。
来訪者もその音を聞きつけたのだろう――元々部屋の主の反応を窺っていたのだから当然のことだ
――先程まで感じていたよりも気配が濃くなっている。

室内扉にしては重厚な作りのそれを静かに開けて、視界に入ったのは夜にも沈まぬ白い翼。
次いで、同じく闇に沈まぬ陽光の如き黄緑色。
Gieが予想していた通りの人物、『この空間』の主たる青年は、嬉しそうな、けれど何処か困ったような、
何ともいえない微かな苦笑を浮かべたまま、こんな時間にすまない、と吐息のような声で詫びを述べた。
微妙な表情をしているものの、思い描いていたよりはまともな状態。
そう瞬時に見取り、今度は安堵の溜息をそっと内心に零しながら何用かとほんの少し目を細める。
長年の付き合いから言葉の無いGieの問いが判ったのだろう。
青年は溜息をつきながら目を伏せ

「水無月が終わるからな」

と応じた。
何のことだと眉を顰めかけたGieは、はた、とそれを止めた。
このやり取りには覚えがあったのだ。
あの時訪れたのは『彼』ではなく『彼女』だったが。
切欠を得て当時の記憶がぶわりと脳裏に蘇る。


それはそれは小さな、衣擦れよりも微かな、そして常には無い震えを含んだ声で詠うように紡がれた言の葉――


「水無月の終わりに 紅月は翳る
 その色味の抜け落ちること
 肌より生気が失われる如く
 血色抜けて残るは 生無き白の,
 物語らぬ、人カタチ」


「……………」

記憶の中の『彼女』と目の前の『彼』の声が重なる。
ただ、『彼』の声は震えてはいなかった。
相変わらず何ともいえない表情のままではあるが、あの時の『彼女』のような、
疼痛による不安定な精神状態ではないのは間違いない。
心に負った傷そのものが齎す疼痛は『彼』も感じているのだろうけれど。
いや、感じていなければそもそも此処に来るはずも無いのだが、今の青年には何処か
懐かしむような――慈しむような、そんな柔らかく穏やかな気配が強い。

かつてと同じ理由、けれど異なる状況に結局眉を顰めたGieを見て青年はほんのり笑う。

「…10年なんだ。

 あの日から、あの世界の暦で、10年。 …一昔に、なっちまった」
「!」

青年の言葉にGieは素直に驚きを表情に乗せた。
未だ、と思うべきか。もう、と思うべきか。
どちらにせよ10という数字は区切りだ。
その事実を知った瞬間驚く程に特別な感じを齎すのだから、区切りというものはなんとも
不思議な力を持つものである。
Gieの驚き様には何も触れず青年は先程までの苦笑を戻して

「今この世界、ブリアティルトに居る『俺達』も『あんた』も
 あの世界に生きた『彼女』でも『彼』でもないが…

 『俺達』はやっぱり『彼女』でもあるし、
 『アンタ』はやっぱり『彼』でもあるから、さ」

と続けながら、片方の手に携えていた籠を胸の高さに掲げてみせた。
見下ろしたGieの視線が捉えたのは、籠に収まるたぷりと音のする黒にも見える深い色の瓶、
布巾を被っている何か――は、状況から察するに青年が手ずから用意した肴だろう。

青年の意図を正しく汲み取ったGieは薄っすらと口角を上げると、青年が通れるだけの幅を
確保する事で諾を返しつつ、踵を返して戸棚からグラスを二つ取り出した。

  • 2018/06/30
  • 創作モノ::幕間/AUC