鼻腔を擽った甘くて青い香り。つん、と刺激を与えてくるのはアルコール。
ああ、そんな時期でしたねと彼は胸中で呟いて、手伝いますか、と主に問うた。
「あー、そっちのざるを空けてくれると助かる」
長い菜箸と穴あきお玉を駆使し、ふよふよと鮮やかに透き通る茶の液体を泳ぐそれらと
格闘していた青年は、手元に真剣な視線を注いだまま彼に応じる。
青年の手元には捕獲に成功したそれが山と積まれた笊が一つ、半分埋まった笊が一つ。
この笊だなと近寄れば更に香りは強くなる。
何処か青いのに甘くて強かに、ひっそりと思考を浸して来るかのよう。
酒に弱い人がこの場にいたら酔ってしまってもおかしくない。
風月晶華の風物詩、昨年漬けた梅酒の梅の実上げ。
店主の青年御手製の梅酒はあくまで自家消費用。
折々の食前酒や晩酌に消費される以外は、物好きな青年が一人、毎期巡りの終わりに
その青年のところで漬けた梅酒を持参して交換がてらの密やかな飲み会に使われる程度の、
実にささやかなものであるが、自家消費用といえどそれなりに拘りがあるらしい。
その一つがこの作業。毎年新しい梅酒を仕込んだ後、前年の梅酒から梅の実を上げる。
青年曰く、長く漬けていると濁ってしまうから。
また、飲むのは仕込んでから3年以上であることが必須。
1年では『まだまだ青い』、そうで。これは実際呑み比べると味が違うのだから面白い。
そんな風月晶華の梅酒は殆どがブランデーを使って漬けられる。
絶対ブランデー、というわけではないので、これは拘りではなくどちらかというと
好みの問題であろう。
とはいえキッチンに満ちるこの強い香りはブランデーを使ったせいだと彼は思う。
数がそう無い上に1年おきなので比較は難しいが、ホワイトリカーを使った年のものは
此処まで強く香らない気がする。
近寄って山盛りの笊を手に取れば、皺くちゃの梅の実。
ものによっては皮が種にへばりついているだけで、身はどこにいった?という状態。
梅の実のミイラなんてものがあったらまさしくこれだろう。
酒に全て吸い取られているんだから、そりゃあ酒が美味しくなるわけだよ、と納得できそうだ。
「…ジャムにするのは難しそうですね、今年も」
「ブランデーで漬けるとそーなるよなぁ、不思議な事に。ホワイトリカーだと
美味い酒の漬け物みたいになるのにさ …ま、使える奴だけ後で救出しよう」
ざらざらざらっと少ない方の笊に新たに捕獲した梅の実を転がして青年は笑う。
毎年のこうした会話も、青年の作った梅酒も勿論好きだ。
けれど、と、彼は思う。
「……他の果実酒は作られないのですか?」
ストレートにではなく、ほんの少しだけ湾曲に。
彼の問いが意外だったのか、青年は作業の手を止め、ぱちぱちと瞬きながら彼を見下ろす。
じっと見上げて見つめあうこと暫し、あー…、と青年は声を零す。
どうやら彼の一番言いたかった事は伝わった様だ。
「ディドの言いたいのは『洸雪』、だよな」
「ええ。贈答品として購入者がいらっしゃる程の出来だったのでしょう?
僕は…僕の基が嗅いだ香りしか知らないので。飲んでみたいな、と」
確認の言葉に、是を頷きと言葉とで力強く返す。
それは青年が青年になる前――彼等でいう処のオリジナル、彼に言わせると『基となった方』が
仕込んだ果実酒。
元々、自分自身が友人に贈る為の良い品が見当たらないからと作ったものだったそうだが、
ひっそりと委託販売したそれは早々に完売したという。
当時アルコールを摂取する事が叶わない身の上だった為、彼はその味を知らない。
ただ基の存在から受け継いだ記憶として、非常に馨しかった、とだけ。
殆ど外見の成長は無い姿だが、こうして梅酒仕込みを手伝う年を重ねる度に、
梅酒以外の――特に記憶に残る『洸雪』と名づけられた果実酒を飲んでみたいという思いが
降り積もっていたらしい。
しかして、彼の熱意とは反比例に、青年はどこか困った笑顔のままである。
「お前意外と酒好きだよな。普段は全然飲まねぇのに。
……けどすまん、それは叶えてやれねぇわ。作れないんだ」
「…そうなんですか?」
「材料が手に入らないからな」
密やかに青年は溜息をついて、申し訳無さそうに眉尻を下げて言葉を続ける。
「ちょっとだけ試した事はある。イズレーンは結構似た空気だし、清流多いし。
けど駄目だった。勿論味は良かった、が、それまでだったね」
かの雄大な山脈に降り積もり、融けて、あの雪と緑の深い大地を潤した清流で。
そしてその清流と大地に育まれた果実じゃなきゃ、あの味は出ないんだ。
何処か懐かしそうに目を細め、ほんの少し――彼だからこそ気付けた程度に
感情を落として語る青年に、彼はぐっと息を飲む。
この顔は知っている。
遠くなってしまった故郷を想うときの顔だ。
それは同時に、故郷に纏わる記憶と複雑に絡み合い、切り離せなくなった傷跡が
疼いた時の顔でもある。
―――こんな顔をさせたかったわけじゃない!
失敗した、と、内心酷く後悔しながら、努めて軽く、そういうものですか、と返す。
すると青年も軽やかに、そういうものさ、と返して笑う。
「そんなこんなで梅酒以外の果実酒はあんまりなぁ…気が向かなくなってさ。
ま、でもこの梅酒だって負けちゃないと思うぞ?なんたってこの瓶は
あの商売上手なお人が仕入れてきてくれたの使ってるんだから。
解禁まではあと2年寝かせるが、手伝いの特権だ、味見してみないか?」
どうやら危惧した程の疼痛ではなかったようだ。
前の世界では『彼等』になって日が浅かったためか、記憶に引き摺られる姿を見たことが
あっただけに、自分の問いが切欠でそうならずに済んで良かったと心から安堵した。
「ええ、是非」
揺れ動いた心に気付かれて、主の表情が曇らぬよう。
丁寧に丁寧に蓋を閉ざしながら、軽やかに彼は主に応じた。
